5月 232020
 

俺は大学でインドのことを専攻していて、その関心は常に「日猶同祖論」がベースにあった。それで今でもたまにそれ関係の本を読むこともあるんだけど、なんか昔より質が低下しているような気がする。
俺が本を探すのはアマゾンで、本屋にはもう長いこと行っていない。それでアマゾンで「日猶同祖論」で検索して出てきた本をざっと眺めてみたんだけど、なんかすごく質の低いものばかりのような気がする。
20年くらい前からか、世間では「トンデモ」なんて言葉が市民権を得て、やれこういうのはオカルトに毒されたトンデモだとか、こういうのは根拠薄弱なトンデモだとか言われるものが増えた。こういうのには気をつけねばならず、この「トンデモ」という単語を使う者は、「=自分の理解の範疇を超えているものは全て嘘」「=学校で習うこと以外は全て嘘」みたいな安直な思考に嵌まり込んでいて、逆に真実を見る機会を自分で奪っている。そもそも「トンデモ」という単語を作った者自身が、そういういわば突飛な論に関する反論のための根拠を持っていない。ただ単に「自分が信じることができないから、トンデモなのだ」という論拠で、単にレッテル貼りをしているだけだ。要するに為政者にとって都合の悪い議論を封殺するための道具に過ぎない。この「トンデモ」という単語を使う者がいたら、2種類の意味で気をつけたほうがいい。一つは「言論封殺をしている手先」であり、もう一つは「思慮の足りないバカ」だ。世の中の真理はおまえが思っているほど単純ではなく、世の中はおまえが思っているほど単純ではない。
話が脱線したが、俺は日猶同祖論の本を昔はよく読んでいて、その中にはもちろん胡散臭いものもたくさんあった。と言うより、正確に言うと、ネタ元がどこかにあって、他の本はその焼き直しみたいな感じが多かった。だから本当に役に立つ本を見つけるのには苦労したし、また日猶同祖論とは直接関係のない本からヒントを得られることもあった。
最近はああいう話題の舞台はネットに移ったようで、下手に本を探して読むよりネットを検索した方が情報が多かったりする。けれど大抵のサイトは、やはりネタ元がどこかにあって、それをコピーしただけのようなものが多いようだ。ではそのネタ元とは?というと、やはり八切止夫や鹿島昇のような人たちの本のようだ。つまりそういう人たちの本を少なからず読んだ俺にとっては、もはや焼き直しを読んでいるのと同じことで、あまり新しい発見はない。新しい説を語った情報源がないのも、「トンデモ」という単語が市民権を得た弊害なのかもしれない。
それとは関係なしに、最近YouTubeでオカルト関係(に分類される)動画を頻繁に見ているのだが、そういうのを見ても、やはり新しい発見はない。要するに、もうネタが出尽くしたということか。であればそれは、既存の情報ではそれ以上のことはわからないということである。日猶同祖論については、もうこれ以上議論する余地はなく、何も新しいことはわからないということだろうか。
では海外はどうなのかというと、かのグラハム・ハンコックが今でも新著を出していたり、そういう関係の議論は今だ続いているようだ。生憎俺は英語が苦手なので海外のサイトを読むことはないが、日本に限った話、ネット時代になってそういう議論も深化するかと思ったら逆に尻すぼみになるというのはどういうわけなのだろう。やはり「トンデモ」という単語が市民権を得て浸透したことが決定的だったのか、それともネット如きでは深い議論ができないと好事家たちが愛想を尽かしてしまったのか。20年近く前の2ちゃんねるは、もう少しマシな議論ができていたように思うけどね・・・。

5月 072020
 

「どのように死ぬか」。・・・これは俺にとって、今でもふと考えるテーマである。
齢40代も後半に差し掛かり、もしかしたら突然ポックリ逝く可能性が無きにしもあらずという年令になった俺だが、どのようにして死ぬかというのは、いつでも頭の片隅に置いてある、「考えたくないが考えざるを得ない」事柄である。
俺が初めて自分の死に方について考えたのは、大学時代だったか、テレビで海外ドラマを見ていた時である。そのドラマは、アラブのハイジャック犯が飛行機を乗っ取って、乗客を次々に射殺するという内容だった。その中で、ある老婆がハイジャック犯に射殺されるのだが、ピストルを頭に押し当てられて頭を撃ち抜かれて射殺されていた。
その際に、その老婆が「こんな死に方嫌ぁー!!」と叫んで撃ち殺されていたのだが、それを見て俺は、「死に方」について考えるようになった。
生まれてきて子供の頃は両親と幸せな生活を送り、青春時代に男性と知り合って結婚し、子供を産み彼らが成長して、やがて孫に恵まれ、幸せな人生を送っていたのではないだろうか、あの老婆は。そんな普通の幸せな人生を送っていたのに、死ぬ時は飛行機でハイジャック犯に頭を撃ち抜かれて死ぬ・・・。確かに「こんな死に方嫌」だと叫びたくなるだろう。
同じく死に方についてテーマにした作品として、筒井康隆の「死にかた」という短編がある。これはある時突然職場に鬼が現れて、鉄の棍棒で社員を次々に撲殺し、全員殺された後主人公が殺される場面になり、必死に命乞いをする。すると鬼が笑い出し、「ハハハ、当たり前の命乞いをしたのはおまえが初めてだ」と言うので、主人公が「じゃあ殺さないでくれるのですか」と訊くと、鬼は「いや、やっぱり殺すのだ」と棍棒を振るい、主人公を撲殺する、という内容である。これは筒井康隆らしくシュールなブラック短編で、後に相原コージが漫画化していた。
死に方というのを考えると、俺は今までいろいろあっても一応普通の人生を送ってきて、最後にどうなるか、ということである。交通事故で突然死ぬか、病気で苦痛にのたうち回って死ぬか、急病でポックリ死ぬか、コロナや大地震でいきなり死ぬか、エトセトラetc。人がどうやって死ぬかは誰にもわからない。だから精一杯生きねばならない、という論に繋がる。
人は必ず死ぬ運命だが、死ぬために生まれてくるのではない。生きるために生まれてくる。だからその生では、生きることだけ考えていればいい。
俺は小学校の頃、核戦争の恐怖に怯えていたことがあり、いつ核戦争が起こって死ぬか、ということばかり考えていたことがある。ある日親父にその事を話したら、親父は「そんなことばっか考えてても仕方ないんだよ。それよりも・・・」と言い、その先は聞き取れなかった。果たして親父は何と言おうとしていたのか、今ならわかる気がするが、ここには書かない。
「銃夢」というマンガの中に、メリーゴーランドの上で走る生きた馬が、そこから逃れ、そのまま数歩だけ歩いて死ぬ、という場面があった。そこでメリーゴーランドを作ったノヴァ博士が「バカな馬です。メリーゴーランドの上を走っていれば死なずに済んだものを」と言うと、息子のケイオスが「僕はそうは思わない。あの馬は最後の数歩を好きなように歩いて死んだのだ」と言う。ここに「自由」という概念の如何を見ることができると考えるのは、俺が籠に囚われた鳥のような思いを抱いているからだろうか。
どのように死ぬか、というのは重要だ。もし死ぬ時に、満足して死ぬことができたなら、その人生は良い人生だったと言えるだろう。どんな苦難の人生であっても、たとえ長い間牢に閉じ込められていた人生であっても、死ぬ時に足の鎖が外されて愛する人に囲まれて死ねたなら、その人生は勝利だったと言えるだろう。ネルソン・マンデラは人生に勝ったし、ジャン・バルジャンは人生の勝者だ。
教会の友人が言っていたことだが、「あなたが生まれてきた時、あなたは泣いていたけど周りの皆は笑っていたでしょう。だから死ぬ時は、みんなが泣いていてもあなたは笑っていられるような、そんな人生を送りなさい」。果たして俺はそんな人生を送っているだろうか。
人は生きるために生まれてくる。だから生きることだけ考えていればいい。どんな死に方をするか、それは誰にもわからないし、神にもわからない。人生がどうなるかなんて誰にもわからない。最後の数歩を自由に歩く馬になるか、鎖を引きずったまま繋がれた囚人として終わるか、それは自分次第だろう。
籠に囚われた鳥は、いつか羽ばたく。

5月 052020
 

今ちょっと確認してみたら、このブログのコメントが全く見れなくなってる。記事タイトルをクリックしても、タイトル横の「~コメント」ってとこをクリックしても、コメントが表示されない。
ちょっと調べてみたけど原因がわからない。設定は一切弄っていないので、Wordpress側の不具合らしい。
そもそもこのWordpressはバージョンが低く、なぜ低いかといえばバージョンアップできないからで、なぜできないかといえばサーバーのPHPのバージョンが古いからなのだ。
以前サーバーの会社にメールをして、「PHPのバージョンを上げてくれ」と頼んだけど、のらりくらりとかわされてしまった。そのサーバーの会社はハッスルサーバーというところだが、ここは値段が安い。そのせいかサポートもあまりやる気がない。
今回の件でメールを送ってみても、多分適当に言い訳を言って放置だろう。ああ、こんなことなら以前のさくらのレンタルサーバーのままにしておけばよかった。
そんなわけで今の状態ではコメントが表示されないし、コメントもできないと思いますが、数少ない読者の皆さんゴメンナサイね。

(追記)
いろいろ設定を確認したところ、どうやら原因はパーマリンク(ブログの記事のURL)だったようです。
今までは投稿した秒数まで表示されるパーマリンクでしたが、ここをデフォルトに戻してみたら、コメントが普通に表示されるようになりました。
過去記事にリンクを張ってくれた方は申し訳ありませんが、新URLに変更してくれるとありがたいです。
どうもお騒がせしました。

4月 252020
 

もはや毎日のニュースはコロナのことばかり、皆の頭にあるのもコロナコロナというご時世になってしまった。
正直このウイルスの本質は俺にはよくわからない。ネットの情報を見ていると、最初は「タバコを吸っている人は致死率が高い」と言われていたのに、今は「タバコを吸っていると致死率が低くなる」と言われていたり、そもそも暑い国でも流行っているから夏になっても沈静化しないという話だったが、今では「感染のピークは過ぎた」と言われたり・・・。正直何が本当なのかわからない。
現在は外出自粛がアナウンスされているので皆「stay at home」を合言葉に家にいるようだが、俺は元々引きこもりなので別段変わったところはない。ただ教会の礼拝に今後はちょくちょく行こうと思っていたので、行けなくなったのは少し残念だが。
毎日のように更新されていて楽しみにしていたブログも最近は管理人が歯痛だとかでお休み中だし、読みたい本もあらかた読んでしまったし、PCゲームもクリアしてしまったし、いかがでしたかブログも今は書いてないし、正直毎日暇だ。加えてテレビはいつ点けてもコロナコロナ。正直飽きる。
あとはオリンピックが中止になってくれれば俺の願いは叶うのだが、これはもう確定だろう。こんだけ世の中滅茶苦茶なのにオリンピックどころではない。コロナの治療薬やワクチンを開発するまでに1年以上かかるそうだから、オリンピックは間違いなく中止だ。ああ清々する、ざまあみろ。
とりあえず最近の心配事は、コロナの影響でアニメが次々に放送延期になっていることだ。今はかぐや様の二期が楽しみだが、これも最後まで放送できるかどうか。邪神ちゃんドロップキックはAmazonで二期を早々と全話見てしまったので、あとはネットで評判の良かったはたらく魔王さま!を見てみようと思っている。
これじゃあMSFS2020も発売は遅くなるかも知れないな。ちょっと残念だが、代わりにSTEAMでFSX:Steam Editionを買ってしまった。最近はPCゲームも飽きてしまい、面白いゲームを探すのに一苦労だが、15年も前だったらMMOが賑わっていたのになあ。俺はMMOはあまりやらないままでブームが過ぎてしまったのだが、こんなご時世だからこそMMOに人が集まってもいいのではないだろうか。リネージュ1みたいな古風なゲームがまた流行らないものか。

4月 132020
 

俺の人生って、親とか友人とか先生とか、そういう「周りの人」に何か影響を受けたことって、ぶっちゃけ一度もないと思う。
では何に影響を受けたか?と問われれば、それは「マンガ」、特に「ドラえもん」の影響が強かったと思う。
俺はドラえもんに関しては一家言持っている男で、単行本も全巻持っていたし、テレビアニメも毎週見てたし、映画も6作目まで映画館に通ったし、言っちゃなんだが「ドラえもん博士」を自負していたほどである。ガキの頃は藤子先生に憧れて自作のキャラをノートに描いていたこともあった。
藤子先生の作品の何が素晴らしいかというと、押し付けがましくないところだ。漫画を読んでいるとしばしば「作者のイデオロギー」が垣間見える作品というのがあり、それは雁屋哲の作品などではとても顕著だが、藤子先生の場合はそういうのがない。しかし読めば読むほど、その「言いたいこと」は強く伝わってくる、という不思議な作品を描くのだ。
ドラえもんがのび太に語るいろいろな事、人生訓のようなもの、そういうのは作品中にしばしば見られるが、どれも押し付けがましくない。しかし心には不思議と刺さる。そういう不思議なメッセージが、藤子先生の作品には込められている。
そういうものの中で、一番俺の心に残っているのはこれだ。

・・・戦争というものをたった1コマで結論づけてしまう藤子先生、俺はこのコマを見る度に、自分の未熟さと世間の人たちの愚かさをしみじみ思い知る。人類にとって最も災厄をもたらす行為である「戦争」を、藤子先生はわずか1コマであっさり結論づけている。これ以上の真実はないし、戦争というのはこれ以上でも以下でもない。
そして藤子先生の作品で最も素晴らしいのは、子供の友情というものを普遍的なテーマとして扱い続けたことだ。ドラえもんもオバQもハットリくんもパーマンも、みな「友情」というものをベースにして成り立っている作品である。
俺が子供の頃に読んで、思わず涙を流したコマがこれだ。

いつまでもいつまでも・・・。そう、ずうっと夢のような時間が続けばいいなと、子供は願うのだ・・・それが儚い夢だとしても。正ちゃんとQちゃんは、ずっと友達だ。俺はこのコマを見て、今のニート生活を思う時、オバQのテーマソングだった「大人になんてならないよ」という言葉を噛み締める。僕は大人になんてなりたくない。ずっとずっと、子供のままでいたい。そう願うのは、俺が大人になってもずっとドラえもんが来てくれることを待ち続けている、大きな子供のままだからなのだろうか。
人は誰しも大人になる。時は待ってはくれない。そう、人は年を取り、顔に皺を刻み、腰は曲がっていき、それでも僕はドラえもんとQちゃんを待ち続け、探し続ける。

レ・ミゼラブル、ああ無情。時は無情なり。永遠の子供など存在しない。いるとすれば、それは楽園の天使だろう。僕もあれから年を取り、手は汚れ、世の中の汚い部分をたくさん見てきた。それでも生はまだ続き、その先に茨があっても、険しい崖があっても、時は機械的に流れ行く。
「大人になんてならないよ」そうQちゃんは歌っていた。けれど僕は、大人になれなかった可哀想な子供なのだろうか。皆に置いていかれた、周回遅れの哀れな道化なのだろうか。ホワイトスネイクの「Here I go again」に「Like a drifter, I was born to walk alone.」と歌われているが、独りきりで歩き続けるのは寂しいし疲れる。
だから僕は待つ、誰かが現れるのを。それはかつて会った恋い焦がれるあの女性だろうか、それとも・・・。

4月 032020
 

今日は俺の誕生日。
また一つ歳を取ってしまった。

・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。

ああ・・・年月は無情だ・・・。いくら頼んでも待ってはくれないし、かと言って取り戻すこともできない・・・。ただ無情に機械的に流れ行く、それが年月。気がつけば俺も、あと少しでアラフィフに手が届きそうな年齢である。
これまでの人生を思うと、そして現在の境遇を思うと、涙がちょちょ切れてくる。一体どこでこうなったのか。一体どこでこうなったの、私の人生~♪とか歌にありそうだが何の歌だったか忘れた。名前も知らない切ない哀歌に刻まれていそうなこの言葉、今の俺には沁みてくる。
今の俺は惨めな子供部屋おじさん、そしてニート。何も失うものはないが、何も得ていない。ただ生きているだけの、ウンコ製造機。子供の頃に絶対なりたくなかったどうしようもないおじさんに、俺はなってしまった。かつての友人知人たちには会うことすらできないし、会いたくもない。両親にも申し訳なくて顔向けできない。
けど・・・これから俺の人生は良くなるのかな?今のコロナウイルス騒ぎを見て、「コロナウイルス楽しすぎるw 無職には最高の娯楽だわw」と心の底で思っているのが俺だ。こういう終末感が濃厚に漂うイベントって、長いこと起こらなかったし。9.11同時多発テロ以来じゃないか?これだけ世界中が喧々諤々になったのって。不謹慎ながら、もっともっと大変なことになってほしいと心の底で思っている。
このコロナウイルス騒ぎについて、神様が俺を哀れんで、俺をさんざんコケにしてきた世の中に天罰を下している、と俺は思っている。だからこれから世界の指導者とか重要人物とかが死んでいくのでは・・・と不謹慎ながら思っている。それくらいでないと俺のルサンチマンは解消できないし。俺を虐めたあいつらや、俺を冷遇したあいつらや、俺を苦しめたあいつら、みんなみんな死ね。神の天罰じゃ!!ワハハハ・・・と思い、溜飲を下げている。
けれどこういう文章を書いている時に決まって、テレビのAT-Xから啓示的な言葉が流れるんだよなあ・・・。今は「自分の人生は自分で切り開かないと!」と流れてきた。そりゃ切り開けるものなら切り開きたいが、俺の場合は・・・。だからコロナウイルスに期待してしまっても仕方ないと思う。人は小さく弱いのだ。何でもかんでも自分自身の力でどうにかできるほど、世の中は簡単ではない。
古代から様々な宗教が生まれてきたが、宗教を生み出す、というか神様を信じるようになる人の気持ちは痛いほどわかる。だって俺がそれそのものだし。もう何もできない信じられない状況になると、神様を信じるようになるのだ、人は。それくらい人というのは小さく弱いのである。だから俺が子供部屋おじさんなのも仕方がないのだ。
ちなみに「人」と「人間」の違いがわかるかな?この二つを使い分けているのが、取りも直さず「人間」だ。そして俺は「人」でありたい。人として、もうちょっとだけ幸せになりたい。幸せを求めて足掻くところに、人の尊さはあるのだから。

3月 192020
 

俺はずっと知らなかったが、2020年の3月20日に地球が滅びるという説があるそうだ。
こういうのはもうお馴染みで、1999年にはハルマゲドンの予言があったし、2012年にもマヤの暦が終わっているから滅亡説があったし、皆「またかよ」と思うだけで気にもしないだろうし、実際に話題になってもいない。
けれど重要なのは、この予言が「9年サイクル」に当たっているということだ。
9年サイクルというのは、以前俺のブログに書いたように、「印欧語族は9という周期で物事が更新されるという思想を持っている」というあれだ。2001年に9.11同時多発テロがあり、2010年にはジャスミン革命があってそれがシリアへの軍事介入直前まで繋がっていた。そして昨年が2019年で、年末に起こったコロナウイルスの騒ぎで現在世界中は喧々諤々である。「COVID-19」という正式名でもわかる通り、この病気は2019年に発生したものである。やはり9年ごとに、世界を揺るがす出来事は、確実に起こっている。
2020年3月20日に世界が滅びるという話は、そもそも2012年12月23日に世界滅亡という説があったが、この根拠になったマヤ文明の暦が閏年を考慮していなかったため、正確に計算し直すと2020年3月20日になる、というものだそうだ。そしてインドのコナーラクという場所にスーリヤ寺院というものがあり、1984年にユネスコの世界遺産に登録された寺院だそうだが、ここにある暦が2020年3月20日で終わっていて、マヤ文明の暦と同じ日を指しており、そのため「今度こそ世界滅亡では」と言われているのだそうだ。
まあこういうのはおそらく、いろ~んな日付がいろ~んな場所にあって、世界滅亡説というのはいくらでも出そうと思えば出せるんじゃないかと思う。いちいち気にしないほうがいいのかもしれない。けれど気になるのは、この日付がインドの「スーリヤ」寺院に見られるという点だ。スーリヤというのはインドでは「九耀」と呼ばれ、前述した「9のサイクルで世界が更新される」という思想のことである。その名前を関した寺院に世界滅亡の日付が書かれているというのは、今回の世界滅亡説がただの荒唐無稽な話ではないという気がしてくる。
2020年3月20日は春分の日で、俺は知らないが、おそらく占星術などでは特別な日付なのではないだろうか。古代のインドやマヤ文明は両者ともに独自に0を発見しており、その数学的・天文学的知識は非常に高度だったから、当然この日が春分の日であることも計算できたはずである。であればこの日に何かが起こることを占星学的に予測したのかもしれない。
この「占星学」だが、俺はほぼ全く知識がない。けれど世の中を動かしている人たちというのは、これに大変大きな関心を寄せているようで、例えば西暦2000年からはそれまでのうお座の時代から水瓶座の時代に変わったそうだが、その途端に9.11同時多発テロが起こった。ナチスという集団もオカルトに非常に傾倒していたというのは有名な話だし、我々一般人が笑い飛ばすようなオカルト的要素は、世界を動かしている人たちの間では非常に重要視されているはずである。
だから我々が存在を知る由もない何らかの組織、そういうのは「秘密結社」と呼べばいいのかもしれないが、そういう集団が、この2020年3月20日という日に何かを起こすとか、何かが起こるように仕組んだりとか、そういうことがあっても不思議ではない。ジャスミン革命がアラブ世界全体に飛び火してシリアまで広がるように扇動した者たちが、今回のコロナウイルス騒動を起こした可能性もある。そもそもコロナウイルスは中国の武漢から広まったが、武漢にウイルス研究所があることはよく知られている。だからそこから漏れ出したように見せかけたとか、実際にそこから漏らしたとか、そういう可能性だってあるだろう。コロナウイルスについて「新型ウイルスの遺伝子には自然界にない塩基配列の部分があり、自然にできたのでなく実験室で作られたものだろう」と述べる医師もいるくらいだ。
こういう所謂「陰謀論」に対して、大抵の人は考えすぎだとかバカバカしいとか言う。けれど世の中はそれほど単純ではなく、陰謀もあれば秘密結社もある。それはちゃんと勉強すればわかることだし、南米に行って俺も肌で少し知ったことである。我々大衆が何でもわかるほど、世の中は単純にできていない。
シヴァの女王の血を引く者がこの騒ぎを起こしたのか、それともナチスの残党が起こしたのか、それとも他の何某が起こしたのか、俺には知る由もない。けれどそういう輩が、明日2020年3月20日に何かを起こす可能性は、ゼロではないだろう。それは、彼らがスーリヤのサイクルに基づきその日を選んだから、かもしれない。9.11同時多発テロもシリアへの軍事介入問題も、実際に起ったのだから。
それとも、これらは全部俺の考えすぎで、みな自然発生した出来事なのだろうか?だったらそれを起こしてるのは神様だということになるが・・・。神様が怒って戦争や病気を起こしているのか?